農学生命科学図書館の歴史

清水謙多郎 shimizu@bi.a.u-tokyo.ac.jp

本日のホームカミングデイでは、今年50周年を迎えた農学生命科学図書館の歴史についてお話をしたいと思います。
東大農学部の歴史は、明治7年、現在の新宿御苑の地で発足した農事修学場に始まりますが、農学教育を本格化させるため、農学校を新たに発足させ、明治11年に駒場で開校式を行います。 当初、札幌農学校に対して単に農学校と呼んでいましたが、明治15年より駒場農学校となり、明治19年には、西ヶ原の東京山林学校と合併して東京農林学校となります。 この年、帝国大学が発足し、明治23年に農科大学として帝国大学に合併します。さらに、大正8年に農学部となります。
明治11年1月24日、明治天皇、大久保利通の臨席のもと、農学校の開校式が行われました。大久保利通は、開校式の挨拶の中で、農をもって国民の生活を豊かにする事業は今日まさにこの日から始まるのだと言いました。写真は、現在の駒場公園の奥の広場にあった農学校の本校舎です。両側が植物園ですが、まだ苗木が植えられたばかりのように見えます。
さて、本格的な農学教育を行うにあたり、お雇い外国人と合わせて重要なのが、西洋からの文物の輸入です。 図書については、東大文書館柏分館に「書籍一件廻議綴」という史料があります。 虫食いと紙の付着が激しく、全部は読めませんが、ここに記載されている情報としては、明治6年の図書の購入が初めての記録でした。 駒場農学校の歴史は、駒場農学校等史料という安藤円秀先生が、駒場の物置に眠っていた資料を書き起こしたものがもっぱら一次資料となっていますが、これの原典が不明で、文書館でもわからないそうです。 「書籍一件廻議綴」の図書購入の記述は、駒場農学校等史料にない記録です。
明治初めのころの図書の購入の記録です。「駒場農学校等史料」に記載されていないデータが記録されていました。 なお、明治20年ごろまでに、和書と洋書の数が逆転していることがわかります。 東京大学や工科大学校でも、明治10年代に洋書と和書の購入数が逆転しています。
農学校の図書室ですが、海外からの図書をもともと農学校発足当初から図書室に相当するものがあったと考えられます。ただ、記録では、こちらの農学校諸規則書が最初と考えられます。
第十章に図書室に関する記述があります。第1条で、本室は、内外の農書を集蔵し、教員及び生徒の用に供す、と書かれています。 学生の教科書は、原価の半額で払い下げていたことがわかります。 教員は書籍3冊までを一度に借りることができ、学生は借りることは許されないが、閲覧室で読むことはできたようです。
明治17年の駒場農学校一覧にも、図書室に関する記載があります。
明治13年の規則よりも、規則がさらに整備されてます。 図書とあわせて、器械の利用が規定されており、化学農薬および獣医器械は担当の係、理学及び測量器械は担当教員を介して貸与され、製図機械は担当教員の承認により直接学生に貸与されていたようです。
開館時間が書かれていますが、土日も午前9時から午後4時まで開館していたようです。
 
この表は、明治17〜18年ごろの東京大学、工部大学校、駒場農学校の図書利用規則の比較です。 駒場農学校の場合、学生への貸し出しは、教員の許可があれば認めていたようですが、教職員と同様、複本がある場合に限られていました。 開室時間については、3校とも、比較的早い時間から開室しており、東京大学は午後9時まで、駒場農学校は午後8時まで開室していました。 駒場農学校では、土日も午後4時まで開室していました。 なお、このころになると、明治の初めに行われていた払い下げの規則は、少なくとも図書利用規則からは消えています。
写真は、東京大学文書館が所蔵している東京農林学校の時代の図書受け入れの記録です。虫食いが激しく、中を見ることは困難な状況です。
和書目録、重要な本は複数冊備えていたことがわかります。
こちらは、年代は不明ですが、少なくとも農科大学以前から使用していた図書カード箱で、東京大学文書館が所蔵しています。
 
 
東京農林学校から帝国大学に図書を移管したときの記録です。 山林学校、農学校、東京農林学校の時代に受け入れた図書のリストを表示しています。
農学校の図書室がどこに置かれていたかは今のところ不明です。 ただ、農科大学として帝国大学に編入された後の明治25年帝国大学一覧によれば、図の○印の建物が図書室と記されています。獣医学科教室と廊下でつながっていることがうかがえます。
図書館の建物は、明治41年に、農芸化学教室の近くに移築されました。 大正9年の建物配置図では、「文庫」と称する建物も見られるが、詳細は不明です。
昭和8年の農学部の建物配置図です。航空研究所の建物が建設中になっており、その敷地に、農場関係の建物が移築されています。 図書室関係の建物として、図書閲覧室、図書室文庫、図書分室が記載されていますが、実際にこれらがどのように利用されていたかは不明です。
写真は、「学部移転記念帳」に掲載されていた図書室と思われる部屋です。 農芸化学教室の写真が続く中に掲載されていたことから、農芸化学科が利用していた部屋と思われますが、天井などは、この写真帳の掲載されている他の農芸化学教室の部屋と違っています。 この部屋は、農芸化学教室の近くにある図書室(昭和8年の東京帝国大学一覧の建物配置図では「図書閲覧室」)である可能性があります。
昭和6年の「東京帝国大学農学部便覧」によりますと、本郷とキャンパスが離れていたため、農学部の学生のために「農学部図書室」を置いているという記載があります。 農学部図書室は、第一生徒寄宿舎の棟に置くと書かれており、少なくとも学部共通の図書室は、昭和8年の建物配置図に記載されている図書室関連の建物とは別にあったと考えられます。 また、「農学部図書室の図書は一部分は図書室に備え付けられてあり、一部分は各教室又は部局に備え付けてある。」という記載があります。この最初の「農学部図書室」は組織の名前であり、その次の「図書室」は第一生徒寄宿舎の施設としての図書室を指すと考えられます。「一部分は各教室又は部局に備え付けてある」という記述は、学科や研究室に置かれている、おそらく研究用と思われる図書も「農学部図書室」の図書として管理されていたことをうかがわせます。
 
こちらが第一寄宿舎の写真です。この建物は、開校時に建てられたもので、現在の駒場キャンパスのコミュニケーションプラザのあたりにありました。 図書室がこの建物のどこにあったかは不明です。 後の資料に、1つの小さな部屋に2,3千の本が雑然と並べられていた程度であったという記載があります。
駒場での図書の管理についてです。学部内共同利用体制をとっていました。 農学部便覧に記載の「図書室」は、学生に対するサービスが中心で、本郷と離れていたため、総合図書館の代わりに図書を保管、貸し出しを行っていました。 学生用の図書、雑誌、寄贈図書などが置かれていました。 一方、建物配置図に記載の「図書室」は、研究用の図書を置いていたものと推察されます。 これらの図書は、各学科、研究室で所蔵していました。ただ、図書の目録の維持と管理は学部でまとめて行っていました。 帝国大学移行後に受け入れた図書は、総合図書館の目録に登録されました。
本郷キャンパスには、大学の図書館がありました。左上の写真は、その図書館の写真で、右下は、関東大震災で消失した後の写真です。右の写真は、当時の「図書館案内」です。
附属図書館では、館内閲覧が基本でした。
こちらは、農学校から、現在の東大農学部に至る、図書受け入れ印の変遷を示したものです。
こちらは、現在の農学生命科学図書館の直接の前身である農学部図書館開館までの歴史をまとめたものです。 帝国大学に合併後、受け入れ図書は総合図書館に登録することになりましたが、学生用図書は駒場の図書室が保管・貸し出しを行い、カード目録を管理していました。研究用図書は、学科、研究室が所蔵していました。 農学部が弥生キャンパスに移転したとき、総合図書館に学生用図書が移管され、原簿、カード目録が提出されました。また、研究用図書は、必要なものは、継続して学科、研究室が所蔵し、不要なものは農学部図書室に預けられたと言われています。その冊数は約34,000冊と言われています。このことについては後ほど説明します。 さて、問題は、戦中・戦後の混乱です。昭和19年ごろに農学部の図書掛が消滅し、その後、受け入れた図書の管理が十分に行われていなかった可能性があります。少なくとも、農学部の原簿には一部の図書しか登録されておらず、カード目録はない状態で、総合図書館にも提出されていませんでした。 昭和30年になって農学部3号館の一室に学部共通の図書室が設置され、さらに昭和31年の物品管理法施行に合わせて、受け入れ図書の原簿が作成されるようになりました。しかし、その間もカード目録はない状態が続きました。 そして、昭和35年、現品調査による図書の整理と登録作業が改めて行われることとなりました。
弥生移転後の農学部図書室は解体されたという話もありますが、少なくとも、書庫として利用していた部屋が、現在の農学部グラウンドに建てられていた農学部分館にありました。農学部分館は、一高時代にも分館として使われていた木造の古い建物です。
しかし、農学部分館は、昭和20年の空襲で焼失し、そこに保管されていた図書も焼失したと考えられます。
これまで、分館の図書が焼失したことで学部の図書が失われたと言われてきましたが、すべてが失われたわけではないと考えられます。実際に使われていたかどうか、現在のところ証拠となる記録は見つかっていませんが、少なくとも、戦前の農学部3号館の2階の平面図に書庫の記載があり、そこに図書が保管されていたとすれば、それらは焼失を免れたと考えられます。また、昭和30年、農学部3号館2階に農学部図書室が復活したという記録があります。当時を知る職員の方の話があります。「小さな、小さな図書室でした」「図書室とはいっても図書は殆どなく雑誌が少々あっただけで職員も3〜5名、研究室で購入した図書・雑誌の支払い、登録、カードや原簿の作成が主な仕事でした」(としょかんだより No.93, 1995.9.20)。この図書室は、書庫となっていた場所で復活したのではないかと考えられます。また、昭和27年に、名古屋大学図書館に和書11,448冊、洋書9,672冊を移管したという記録があり、これだけの冊数の図書は、まとめて保管していたと考えるのが自然です。 なお、学生の指定図書は総合図書館に配置され、これらは、農学部図書館完成後に農学部図書館に移管されることになります。
昭和27年に名古屋大学に移管された図書には、キンチの農用分析表のような極めて重要な学術資料があります。そのほか、本田静六、佐々木忠次郎先生の教科書なども含まれていました。
農学部図書館ができる前、学科図書室は、農芸化学、水産、農業工学、農業経済、畜産獣医の5学科に存在していました。このうち、専任の職員がいるのは、農業経済と農芸化学のみで、あとは、助手や学科事務が図書の整理に携わる程度でした。バックナンバーの購入などは学科事務が行いますが、他は研究室ごとに購入していたようです。学科の図書については、図書の目録がなく、検収・保管のチェックが行われていない状況にありました。 そこで、昭和35年、図書の現品調査が行われることとなりました。
ここで、農芸化学科の図書室の写真を紹介します。農芸化学科の図書室は、農学部2号館2階、現在の教官会議室と生物化学研究室が閲覧室、女子休養室が図書室でした。
右の写真は、当時の図書の職員が書かれた図書の現品調査のフローチャートです。総合図書館および農学部がもつ原簿を合わせて、新規の原簿、所在リストを作成することになりました。
調査の結果、約131,000冊が存在、そのうち登記済みのものは約4万冊であることが判明しました。現在も、当時の調査の痕跡を見ることができます。
この写真は、1964年東京大学卒業アルバムに掲載されていたもので、現在の農学生命科学図書館が建設される少し前の写真と考えられます。当時、言問通りの拡張工事が進められていました。現在の農学生命科学図書館の位置(図で破線の枠で囲った部分)は、更地のようにも見えます。
図書館の建設ですが、昭和33年に、米国ロックフェラー財団に援助を要請し、翌年、建設費10万ドル、図書資料費5万ドルの援助の内示がありました。これを受けて、財団法人農学会が農学部中央図書館建設委員会を組織し、建設資金の募金運動を発足させました。さらに、図書館建設の概算要求を出し、昭和38年に建設費1,600万円(後に追加1,500万円)がつきました。また、一般からの寄付金も2000万円に及び、建設費は、総額1億700万円になりました。 一方、図書館発足にあたり、森林科学科の佐々木敏雄助手(当時)がコロンビア大学図書館学部に8か月間研修に行かれています。佐々木助手は、図書館の主任という立場で、図書館の発足、発展に尽力された方で、後に図書館情報大学の教授になられています。
さて、昭和39年に第1回図書館建設運営等準備会が開かれます。こちらは、9月までに21回も開催されたという記録があります。現在の図書館運営委員会の前身となるもので、第1回図書館運営委員会は昭和39年10月に開催されています。 これとは別に図書館問題協議会が開かれています。図書館建設運営等準備会のメンバー全員が加わり、昭和39年2月から9月まで月1回、毎回約4時間ずつ、図書館建設、運営方針について討議されました。これは、当時、図書館に関することが教授会で決められていることに対し、助手や職員、学生なども図書館建設に意見が出せるようにということで発足しました。昭和39年2月から9月まで月1回、毎回約4時間ずつ開かれたという記録があります。図書館問題協議会は、その後、農学部図書館協議会となり、平成2年ごろまで続きました。
昭和40年(1965年)5月25日、農学部図書館が開館します。 こちらは、図書館開館のときに作られたパンフレットです。
開館当時は、カウンタが正面にあり、その向かって左側に事務室がありました。
玄関ロビーは広々とした空間で中2階がありました。中2階には、新聞・雑誌閲覧室が置かれていました。
中2階から閲覧室を眺めた写真です。
左の写真は個室、右の写真は、新着雑誌架、指定書架です。
1階の書庫です。開館当時は地階はまだできていませんでした。
こちらは、パンフレットに掲載されていた図書館の建物の概要です。
明治11年から13年まで3回に分けて脚気病院報告が出されました。
農学部図書館では、1966年3月(No.1)から1996年9月まで「としょかんだより」という冊子を発行していました。
こちらは、図書館開館後の歴史です。青色が制度的なもの、緑色がしくみ、黄色が施設に関するものを表しています。 興味深いのは、開館後まもなくスペースが不足し、旧木工室を書庫にしたりして、5年後には地階が増築されているということです。平成6年(1994年)には図書館別館が開館します。 この年表の後半では、IT化に関わるできごとが増えていきます。
こちらは、平成6年の館内の図です。開館時になかった地階が作られ、部屋の使い方もだいぶ変わっていることがわかります。地階は、昭和45年に北側の書庫、昭和50年に南側の書庫が増設されました。
余談ですが、図書館に実験室が置かれていたこともあります。昭和48年に農学部2号館の大規模な改修工事があり、そこで講堂を1階と2階の教室に分離するなどの工事が行われました。その間、農芸化学科の3つくらいの研究室が図書館で実験で行っていました。
としょかんだよりNo.61, 1986.9によりますと、農学部図書館の標札は、開館後21年目に作られたそうです。木材は、北海道演習林の桂で、元事務室に勤務されていた黒瀬和子さんの筆によるものです。 その後、平成13年(2001年)、農学部図書館が農学生命科学図書館に改名したとき、現在も使われている新たな標札が作られました。こちらは、上野川修一先生(第19代館長)の筆によるものです。
農学部のホームページは平成8年(1996年)に開設されました。左が開設当初のページで、右側がその変遷です。
ちなみに、こちらは農学生命科学研究科のホームページの変遷です。研究科のホームページも1996年に開設されましたが、図書館の方がわずかに早かったそうです。
農学生命科学図書館では、電子ジャーナルに関して、先駆的な貢献をしてきました。 例えば、1995年、東京大学で最初に導入された本格的な電子ジャーナルであるImmunology Today Online(ITO)の実験サービスを実施しました。2000年には、東京大学附属図書館・情報基盤センターが電子ジャーナルの公式なサービスを開始しましたが、当時、農学部図書館が維持・管理していたリンク集を提供しています。これらは、増田元助教が尽力して下さいました。
1997年には検索用端末が設置され、さらに、研究科予算で学習用PC端末が設置されました。なお、中央の写真で、奥に見える部屋が当時のコピー室で、電子ジャーナルが普及する前、冊子体の雑誌のコピーをここでとられた方はたくさんいらっしゃると思います。
平成18年には、図書館本館の耐震工事が行われました。 農学部図書館と同時期に建てられた教養学部図書館は、現在、アドミニストレーション棟として利用され、医学部図書館も改修され、利用されています。 耐震工事中は別館に入り口を設け、本館の図書の貸し出しは、閉架式でサービスを行いました。 改修工事にあたっては、研究科附属演習林産の木材が使用されたそうです。
設立にあたっては、教授会、助手会、学生自治会、図書職員が準備委員会を立ち上げ、各層の利用者と図書職員が協力して、「自主」「民主」「公開」の方針のもと、学部の教育・研究のための図書館の設立をめざしました。 農学部の自主的な運用が妨げられないか、総合図書館との関係、運営組織をどうするかなどについて、何度も会議が開かれたと言われています。 全館開架式を採用し、開かれた図書館というコンセプトは建築設計にも反映されました。 現在も、一般の方に解放された図書館として、その精神が引き継がれています。 現在、図書館の利用目的に応じたガイド、検索結果からの配架場所の案内など、使いやすさを実現するための工夫を行うとともに、会議室、ゼミナール室、個室、ラウンジなど、ハード・ソフト両面から、多くの方に利用していただけるようサービスの充実につとめています。